ダンロップのライバルはスポルティングだが
敵視してるのはブリヂストン辺りだろうな
「ウソをついてはいけない」とは、私たちが子供の頃から大人に教えられることであるが、ある意味でこの世で最も守られない命令かもしれない。なにしろ、そう命じている大人はウソばかりついているのだから。しかし、この明法は、空疎な社会的慣習を押し付けるものとして意味のないタテマエと見なされるべきものではなく、むしろ「語るべき言葉は真理であるべきだ」という言葉に関する基本原則を表明し確認するものと考えられる。人が語ることその場その場で真実であったり虚偽であったりするということが認められてしまったら、私たちは何を信じて行動したらよいかわからなくなる。ウソはあくまで語られるべき真理からの「逸脱」として非難されるべきなのである。
では、人が人に言葉を語ることの基本が「真を語る」ことにあるとしたら、なぜことさら「ウソをついてはいけない」との基本原則が強調されなくてはならないのか。それは次のような言葉の存在論的理由によるものと考えられる。言葉はそれが表そうとする事実や世界そのものではない。つまり、言葉はそれ自体当の事柄ではないという意味では、(強く言えば)常に偽なのである。簡単に言うと、言葉では何でも言えるし、何を言ってもかまわない。所詮言葉は言葉にすぎないのだから。しかし、言葉には「ウソ」が存在すること、したがってウソをウソとして成立させる「真理」がそれに対応して言葉にはある仕方で可能であると見なすことで、そのような弱い言葉を世界につなぎとめる努力がなされているのではないか。
言葉など所詮すべて偽りで実がないと言い切ってしまうことも、その反対に、言葉が世界の真理そのものとする立場からも距離をおく必要がある。言葉はそれ自体事柄そのものではないという自覚のもとに、しかし言葉には世界や真理との関わりが存在し、そして相手にその意味での「真」を語ることが言葉の基本原則であると強く維持することが、言葉を用いる人間存在が言葉をつうじて世界や他者と関わりを持つことの基本なのではないか。
この意味で、ウソとは強さと弱さをかね備えた言葉の本質、そして、そういった言葉を語る存在としての人間の本質を映し出す鏡であると言えるかもしれない。
— 納富信留 「うそ」 『事典 哲学の木』
私だけの表現
きわめて味覚に敏感な人がいて、自分だけが認知できる微妙な味の差異を記録するために、自分独自の言語を使って、味覚日記をつけるとする。彼だけに認知できる味を表現する言葉の中には、たとえば「さやい」とか「すこい」というものがあるとしよう。他の誰もこの二つの味の違いを認知できず、またそれらがどのような食物に現れるかも一定していないとしよう。このように「自分自身の内的体験──感情、気分、等──を自分ひとり用に記録しておく」(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』)ための言語が私的言語である。だからもちろん、他人はその言語の意味を(たとえば「さやさ」と「すこさ」の違いを)まったく知ることができない、このような私的言語がそもそも可能であるか、というのがウィトゲンシュタインが立てた問いである。
他人にはどうであれ、少なくとも当人にとっては、この言語は可能で有意味であるように思われるかもしれない。だが、そこにはじつに微妙な問題がある。通常の言葉──「まったりした」といったようなものも含めて──には理解が間違っている可能性があり、それは他人(共同体)によってチェックされる。私的言語にはそれがない。あるときから彼の味覚に異変が起こったしても、彼にさやいと思われるものは依然としてさやく、彼にすこいと思われるものは依然としてすこい。彼の確信を離れた客観的規則というものはないから、どうあがいても、彼は間違えることができない。それでも彼は一定の言語に従っていると言えるのか。
さやさやすこさがどのような食物に現れるかも一定していないから、この味覚日記は彼自身にとってもいかなる機能も果たしえない、という意見もありうる。それでは、やはり他人には認知できないが、どのような食物のどのような調理法にそれが現れるかは(彼にとって)かなり一定しているとしよう。つまり、彼自身はその調理法で料理をし、その味を楽しんでいるとしよう。この場合には、ある日、その味を認知する他者が現れないとも限らない。そうすれば「さやい」と「すこい」を使った言語ゲームができるようになる。「これはいくらなんでもちょっとさやすぎだよ」「いや、おれにはこれくらいのさやさがちょうどいいんだ」。朋あり遠方よりきたる、また楽しからずや!
だが、それでも彼はまだ、間違えることはできない。二人のさやさ感覚が分かれたとき、どちらに権威があるかは決まらない。彼らは、カトリックとプロテスタントのように、裏千家と表千家のように、革マルと中核のように、内部で分裂することになる。ほんとうのさやさを知っているのはどちらであろうか。さやさを認知しない者にはこの対立の意味自体がわからない。だが、さやさを認知する人の数が増え、ついにはほとんどの人が「さやい」を使った言語ゲームに参加するようになったとき、事情は根本的に変わるだろう。最初の人物は、このときはじめて、味覚に異変を起こして、自分ではさやさとすこさを正しく認知しているつもりでも、ほんとうは正しく認知していなかった人物になることができるようになった。教祖は失墜可能となった。
このストーリーは、少なくとも「味」という語の使い方に関しては、彼が他の人々と一致しているという前提のうえに乗っていた。では、そこにおいてさえ一致していない可能性が考えられるだろうか。
もし、彼の認知するさやさが、じつは「日本国内においてはさやいことを意味し国外ではすこいことを意味する」という、国土に関連した「さこい」という性質だったとすればどうだろうか。つまり、じつは一定の味の性質ではないのだとしたら。だが、そんなことはありえないのだ。「日本国内においてはさやいことを意味し、国外ではすこいことを意味する」などと語りうる視点がどこにもないのだから。「甘さ」や「辛さ」と違って、あいつの「さやさ」と「すこさ」は国内外で逆転しているなどと言える人はどこにもいない。だから、逆転していないのである。たとえ、ほんとうは逆転していても誰にもわからないのではなく、そういう「ほんとう」を語る視点はどこにもないのだ。だから絶対に逆転などしていないのである。彼はやはり、間違えることはできない。
だが、彼がもし、光がまぶしいとき「さやさ」という味を感じ、音がうるさいとき「すこさ」という味を感じる(と主張した)とすれば、どうか。あるいは、その味は口の中で感じる味ではなく、身体全体で、あるいはさらにはつま先だけで感じる味なのだ(と主張した)とすればどうか。それでも彼は、味を感じていると言えるであろうか。彼の朋もまた遠方から来る可能性があるだろうか。
私的言語理論の可能性
以上は、「味」という語を使った言語ゲームの規則の一部をえぐりだすための、言語ゲーム論的記述であった。この記述それ自体は、「味」を語る言語ゲームの通常の規則に従ってなされているわけではない。だから、それではもう「味」とは言えないとか、その記述自体が理解不能だ、とか思う人もいるだろう。ウィトゲンシュタインは「感覚」という語について同じことをおこなった。私的言語で語られるとされる感覚について、言語ゲーム論的記述をおこなうことによって、それがもはや感覚とも言えないものに行き着くさまを示そうとした。
私的言語の問題は私的規則の問題と同じなのだという解釈もあるが、それは違うだろう。ウィトゲンシュタイン的な私的言語の問題は、あくまでも感覚や気分などの「私的体験」を独自に認知分類する言語の可能性に関する問題であり、私的規則一般の問題よりはるかに限定された問題なのである。
この「私的体験」の中に思いや考えをも含めたうえで、ウィトゲンシュタインが開発した比喩を使って、私の暫定的な結論を表現してみたい。チェスをするとき、対戦者の一人が駒の一つに紙の冠をかぶせて、「この冠は今やっているこのゲームには関係しないが、私にとっては特別な意味がある」と語る、という比喩である。ウィトゲンシュタインの意図は、この冠がゲームにとって無意味であることを示すことにあった。しかし、私はそうは思わない。冠の意味が後になってからわかる(こともある)ゲームというものが考えられるからだ。そして、われわれがやっているのはそういうゲームなのではあるまいか。もっと正確に描写するなら「複数のプレイヤーでやっているのだが、他の人には意味がよく(あるいはまったく)わからない一人遊びのようなものも兼ねていて、その一人遊びが他の人と一緒にやっているゲームにも関連してくるかどうかはその時点では決まっていないようなゲーム」を、われわれはやっているのではないだろうか。だからこそ、このゲームはおもしろいのではないだろうか。
— 永井均 「私的言語」 『事典 哲学の木』
俺の考えでは、よく言われる「ネットの発達で人の好みが多様化してニッチなものも評価される」というのはほとんど嘘というかドリームだと思います。ネットの存在によってむしろ一般消費者の好みの幅、売れるモノは固定化しています。
もちろん頑張って探した結果の選択肢は一見増えているんですよ。でも、結果選ばれるものは少数化している。これはなぜか?
俺はいっつもなんかに呼ばれてこの話をする場合に例に上げるのは学校の人数なんですね。小学校の学年はだいたい200人くらい、1クラス30人としましょうか。そしたら、一年もいたらクラス全員の名前と、さらに隣のクラスとかの有名人、全体的な雰囲気くらいはおおよそ把握することができます。まあ大体100-150人は名前を知ってる状態から、スーパーで鉢合わせしたらあ、同じ学校のやつだってわかるかんじです。
一方、総合大学では生徒数1万としましょう。四年かよって何人の人と知り合いになれるか。まあ、たまたま友だちになった人2-3人、サークル10人、ゼミで10人くらいですかね? もっと多い? 少ない? しかし、何にしてもふつうに学校に通ってるだけだと、同じ講義を受けている生徒の名前もどんな性格かもまったくわかんないまま、20人とかのそこそこ友だちっぽい人たちに囲まれて卒業しますよね。
つまり、見かけ上の選択肢は、小学校は200で、総合大学は1万人のはずが、結果的に小学校のほうが個体認知出来る数が多くなるんですよ。ざっくりいうと、人の支払えるコストから考えると見かけ上の選択肢が多いほど、人はモノを精査しなくなって実際の選択肢の幅は狭まるんです。
ああ、寡占化すると、「中規模だけどそこそこ儲かる」という状態がなくなっていく→メジャーだけど、低待遇で儲からない人が多くなるって話をしたかったんだっけ?なので、メジャーを見限る人が増え、一見インディーズがビジネスの観点から注目浴びてる「ように」みえるわけだ。
んじゃ、すごく大きな儲かりそうなプロダクトだけメジャーでやって、その他の有象無象のちびっ子カリスマたちは同人・インディーズで活動したほうがお金的な意味で幸せになれるのか?ってことですね。やっと質問の内容にたどり着いたぞ!10分もかかってんじゃん!
結論から言うと、難しいです。だって、見かけ上の選択肢が増えたら実際の選択の幅がせばまったでござる現象は、同人・インディーズでも同じ事だから。そこで頭角を表して、寡占できる側にたとうとすると、下手なメジャーに所属して頑張るよりもっともっと多くの苦労や雑務がありますよ。なにせ、発送に経理に顧客対応に打ち合わせなどが、規模に応じて等比級数的に増えていきますからね。アーティスティックな何かをやろうと思って頑張ったら、気がつくと商店街の零細商店の社長とか、俺みたいな編プロの経営者みたいななにかになっていたでござる状況に一瞬でなる。コンテンツの内容よりも人柄とコネが大事って、なんかもうそれ一般的なアーティスト像じゃないもの。アーティストで一番求められるものは?そう、人間性です!ってのが現状か。
かんがえてみたら、中小企業の社員だと儲からなくて将来が見えないからSOHOで自分で経営する方が堅実ですって言ってるようなもんで、まあ、一般的にいって「ネーヨ」、ですね。中小企業でうだつ上がらなかった人が自分で販路拡大して、掛け率交渉して、顧客対応して、ってできるわけないじゃんなあ?ねえ?
なので、余談だけど自己表現とお金はひとまず切り分けて考えようよ、視聴者いれば経済活動無くても良いじゃん名誉が通貨じゃんっていう評価経済とか岡田斗司夫が言ったのは結構分かるんスよ。まあ、その評価というかブランドって、個人で作って支えて守るにはちょっとばかり重すぎねぇか?とも思いますが。ネット有名人って、なんかちょっとブレイクしたら即いろんなスキャンダルやら謎の理由で失脚したり、疲れちゃったりで2-3年持ったらスゲエって感じするよね。なので、名誉のおすそ分けとしての工房化、ギルド化する方向に行くんじゃないのかな。そのへんももう言ってそうですね、岡田斗司夫…。なので、個人が情報を精査?キュレーション?うふふ、して価値を生み出すのがナウとかもちょっと疑問符付きですね。すくなくとも、「やれ」とは言えない。それはもうプレイヤーなので、2-3年スパンでだいたいプライベートで嫌なこと起きたりしてポピュリズムさんの洗礼をうける人が8割くらいになりそう。怖いね。
で、お金を稼ぐ方の今後はと言うと、これはソーシャルゲームとかアイフォンアプリ的な感じになるんじゃないでしょかね。個人なり、超零細企業なりが興味の赴くままとか何とか回収できそうなくらいのプロダクトをどんどんリリースします。で、運が良ければ一気に話題になって時の人っぽくなります。そこで、メジャーがやってきて、販売なり広報の支援をおこなって、利益をわけます。これは、販売・広報の仕組みを提供するプラットフォーマーが兼ねることも増えますね。そこまで行って、超ブレイクか投資した金額の回収が何とか出来るレベル。超ブレイクしたら超儲かりますが、95%くらいの確率でコケます。堅実に儲けたい人は超ブレイクしたものをパクって柳の下のどじょうは1/10セールスくらいの法則で、ペイ以上を狙うんじゃないですか。ニコニコ動画のうp主ブレイクとJoysound配信とか知ってる人はそれがいろんなとこに適用されていくってイメージでどうぞ。
もしくはプラットフォームをいやな感じに活用してアメリカのamazonや、アフィでお小遣い毎月五万円アップを目指すキラキラした目の貧乏臭い人たちみたいにwikipediaみたいなな内容をコピペした本を数百冊、数千冊捨て値でばらまいてみる。それをさらにコピペして題名だけ変えてみるなどで一気に数だけで圧倒してウッカリ買う人を待つか。現実をハッキングするってそういうことなんでしょうかね?
最後に、現状ぎりぎり機能しているシステムで最後に知名度と顧客を確保しておいて、インディーズ・同人で名誉素人として固定客を確保。月極メルマガとか会員制で先細りの懸念はありながらも老舗の海苔屋のような経営をするってかんじですね。
飽きたんでまとめますと、超メジャーと、やりがいでなんとかするしかねープレイヤーだけになります。ま、夢も希望も無いですな。
もうちょっと夢の話をすると、数千レベルでクズをばらまく勇者さんたちがいっぱい出て市場が飽和して、もうなんかミノフスキー粒子かよ!?もう検索無理で目視しかねぇの!?みたいな状況になるころには、今瀕死の雑誌的な中間的なメディアがもう一度復興するんじゃないかな。まあいまだと2ちゃんまとめブログがそれにあたりますね。あれのもうちょっと良質版がでる感じです。iPhoneでいうとAppbankとかの専門ジャンルものはなんとか成立してますけど、趣味とか年齢とか区切りのいわゆるライフ雑誌的なものですね。アレがまあ成立して一定の力を持つのがもうちょっと先なんじゃないですか? 現在はかなり面白い低待遇で必死で継続してますけど、そのへん。
Googleさんとかの個人の傾向分析で最適化だけではない、その最適化に根拠を与えるオピニオンが必要になるのがそのフェーズだと思いますね。ほら、amazonが「この商品を買っている人はこれも買ってます」が、いかに的中率上がっても、背後の文脈とか気になる生物ですから、人間って。
